早稲田大学の歌といえば校歌と、応援歌の「紺碧の空」ですね。八幡鮨の2階で宴会される早稲田のOBの方々は会の〆めに必ずといっていいほどこの2曲を歌います。心ふるえる名曲ですね。
今回は「紺碧の空」の誕生を手短に書きましょう。以下、郷土史家の一面も併せ持つ四代目の文章から転用させていただきます・・・
{{早大応援団では、一世を風靡していた慶應応援歌「若き血」に対抗すべく新しい応援歌を学生から公募した。その中から一等に選ばれた住治男の「紺碧の空」は、選考委員長、西條八十をして『一字一句たりとも直すところ無し』と言わしめた。
作曲に関しては、有名な作曲家に頼むほど予算がなく、団員の伊藤が、いとこで未だ無名の精鋭、古関裕而に以来。古関はそれを快く無償で引きうけ、この曲で古関は初めて世に出ることとなった。昭和6年春、古関、住、共に21歳青春の時だった。 四代目店主}}
以上は、四代目が住さんのご家族や関係者の方々から直接聞いたお話を纏めたものです。
数々の名曲を生み出した古関裕而さんが世に出るきっかけとなったのが紺碧の空だったなんてちょっと意外な気がしますね。
時代が何度も移っても、ずっと歌い継がれていくことは間違いありませんね。
※写真は当店2階で「紺碧の空」生誕40周年記念の晩(昭和46年10月23日)。
昭和6年当時の応援部員、野球部員と祝杯をあげる作曲家古関裕而(前列左から4人目)。その左は時の滝口体育局長。さらにその左は時の応援団長。
前列右から2人目は特別参加の当店3代目。後列右から4人目は、昭和4年秋の早慶決戦でサヨナラホームラン(ランニングホームラン)を打ってスタンドを沸かし、「佐藤のホームラン」とその名を残した佐藤。
尚、応援に初めてブラスバンドが加わったのも昭和6年のこと。
※作詞の住治男は才能を惜しまれつつ28歳でこの世を去った。
※敬称略
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