このブログで何度も登場している吉野家築地一号店。
その吉野家さんから依頼されて、社内報のインタビューを受けて来ました。
親子三代でということでしたので、三人揃っての初めての築地です。
インタビューは築地の吉野家さんに来だすようになったきっかけや、好みのメニューは何かなど。
ご存知のように五代目の好みは「皿の特盛 葱抜き つゆ抜き、それにごはん軽々」、息子は「アタマの特盛 葱ダクダク」。
四代目は「アタマの大盛り」をいつも食べていたそう。
四代目はそれこそ、吉野家さんの初代がお店にいる頃からの常連ですから、思い出はたくさんあるそうです。
例えば・・・四代目が子どもの頃に、四代目のおじいちゃん(つまり二代目ですね)とお父さん(三代目)に連れられて河岸に来た時に食べた吉野家さんの牛丼が、四代目の最初の吉野家さんの記憶だとか、二十代の頃は息子兄弟が厨房でタオルを頭に巻いて牛丼を作っていたことだとか・・・
何より当時の吉野家さんの牛丼は、当然のことながら国産牛しか使っていませんから、それはそれは美味しかったのだとか。
今も築地一号店の牛丼はピカイチに美味しいと感じている五代目にとっては、それは想像すらできないことです。
インタビューで語ったところによりますと、当時牛丼はどちらかというと安価な食べ物ではなかったそうで、河岸に通う名の通った寿司屋の旦那衆などが多く利用するお店で、今のように場内の人たちやお勤めの人たちが、仕事上がりやお昼ご飯に気軽に食べられるようなものではないのだとか(それはそうですよね、五代目が子どもの頃も、肉は断然贅沢で高価なものでしたから)。
そう行った旦那衆は当然舌も肥えていますから、その人たちを足繁く通わせるということは、やはり相当に美味しかったのでしょう。
その旦那衆の一人、うちの四代目が修行していた新宿の料理屋菊政のご主人はほとんど毎日、小僧さんを連れて食べに行っていたそうです。
うちの二代目も肉好きで、これは四代目の想像ですが、二代目はあるいは日本橋の魚市場の頃から吉野家さんに通っていたかもしれませんね。
吉野家さんにはもう一つエピソードがあって、それは仕入れる肉質の厳しさ。
戦前から戦後にかけて、たまたま八幡鮨のお客さんで吉野家さんに肉を卸している、たけちゃんと言う愛称の肉屋の番頭さんが来ていました。
そのたけちゃんがカウンターで飲みながら言うのです「吉野家の親父はそれは厳しい人でね、最高の肉の中のさらに最高のもの。そのバラ肉じゃないと使ってくれないんだ」と。
ですから四代目が、戦後寿司が再開になってから仕入れに行くようになると、たまの贅沢で入るのですね。
お店には小柄な初代が高い朴歯の下駄を履いて腕を組み、「らっしゃい!らっしゃい!」と元気にお客に声をかけていました。
四代目が食べながら「おじさんいくつ?」と訊いたところ92とか93と答えたそうです。
時代が変わり、味のニーズも変わってきましたが、これからもずっと美味しい牛丼を食べさせてください。
築地一号店。八幡鮨五世代に亘っていつも感動する味を食べさせてくれてありがとう。
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